■遙3■ theme~呼ばわる声・望美
草いきれが忍び寄る夜半、望美は夢の中に忍び寄ってきた声に絡めとられて喘いでいた。低く、感情を抑えた、けれど良く通る声が望美の耳の中で谺する。
「さぁ、来いよ、神子。楽しませてくれ。」
その声はいつも、血の臭いをはらみながら聞こえてくる。
「…やめて。」
「遥か」シリーズ3
草いきれが忍び寄る夜半、望美は夢の中に忍び寄ってきた声に絡めとられて喘いでいた。低く、感情を抑えた、けれど良く通る声が望美の耳の中で谺する。
「さぁ、来いよ、神子。楽しませてくれ。」
その声はいつも、血の臭いをはらみながら聞こえてくる。
「…やめて。」
年明けに行われる「通し矢」に、出てみようかという話になって、譲は望美と連れだって法住寺まで来ていた。
初めてこの世界でここを訪れた時には、望美がここで弓道の大会があることを知っていて、驚いたものだ。幼馴染みであり、よく知っているつもりであっても、ふとしたことで驚かされることは無くならないようだ。それは譲にとって、喜びでもあり、戸惑いでもあった。
「ここで弓を競うの?」
「ええ、先輩、そうです。一昼夜の間にどれだけ的を射ることができるか、競うんです。」
「えぇっ!一昼夜?」
「先生、ヒノエくん見ませんでしたか?」
出会い頭の挨拶もそこそこに尋ねられて戸惑ったものの、リズヴァーンは望美の質問の答を探して逡巡した。
「いや、今日は見ていないようだ…。」
「そうですか…。」
俯き加減になる望美に、リズヴァーンはつい口を滑らせた。
「最近よくヒノエと一緒のようだが…。」
驚いたように顔を上げた望美と目が合うと、リズヴァーンは慌てて逸らした。
「すまない、詮なきことを聞いてしまったな。」
望美を見ていなかったリズヴァーンには、その時の神子の表情などわかるはずもなかった。
「寒い…。」
しんと冷え込む冬の夜、望美は褥の中で丸くなった。
わけもなく目覚めてしまうと空気の冷たさを厭が応にも感じてしまう。もう一度眠りの中に戻ろうと思っても難しく、身体からはどんどん熱が喪われていく。寒さが辛いと弱音を上げた望美にと、寝る前に朔が用意してくれた温石も、もうほとんど熱を感じさせてくれない。冷たく悴みだした指先が、温かさを求めて自分の身体の上を彷徨った。しかしその指先は動く先で温かさを奪いはしても、取り戻すことはできなかった。
「どうした、神子?」
寝ずの番で穏行に身を窶していたリズヴァーンは、夜明けまでまだしばらくある時間だというのに妻戸から現れた望美に驚いて声をかけた。
濡れ縁の高欄越しに、いきなり声をかけられた望美も驚いたらしい。
「…せ、先生?」
と言ったきり動きを止めた。
神子の身に何事かあったのかと、リズヴァーンは戸口に立ち尽くす姿を子細に眺めた。いつもより変わって見えるのは、雪明かりにいっそう青白く映える肌と青ざめた唇だけだったが。神子がここ暫くの寒さに辟易していることは聞いていたので、敢えて尋ねる。
高欄に肘をついて白い息を吐きながら庭を眺めている望美は、寒さに縮こまって萎れているように見えた。八葉達と共に休んでいた廂から、神子の気が不安定になったのを感じて抜け出してきた白龍はその背中へ静かに駆け寄った。
「神子、大丈夫?」
背後からの突然の抱擁に望美の身体は跳ね上がるほどの反応を示したが、声は咽奥で凍り付いているようで擦れたようにしか漏れなかった。
「梅の花が見ごろらしいですよ。見に行きませんか、先輩?」
何気ない風を装いながら誘いを口にした譲に微笑みで応えて、望美は悪びれもせずにこう返答した。
「梅って景時さんが好きなんだよね。…譲くん、一緒に誘ってもいい?」
望美に言われて断れる譲では、勿論なかった。
「ええ、いいですよ…先輩。」
ぎこちない笑顔で答える語尾が消え入りそうに細くなっていくことに、望美は気がつきもしない。聞くべきことを聞いたとばかりに踵を返し、誘うべき人物の部屋の方へと足音も軽く駆けていく。
残された譲は、他の面子が聞きつけてこないうちに出かけられるよう、準備を整えることしかできなかった。
柔らかく積もった雪が月光に映えて、夜更けとは思えない明るさで庭を満たしている。
肌に刺さる空気の冷たさを感じながら、雪に跡を刻んで空を立ち仰ぎ、景時は星を読んでいた。冬の夜空の冴えた空気が雑念を払い、星を読むのを助けてくれると考えて、この時刻を選んでわざわざ庭に出たというのに、期待していたほどの効果はなかった。
「オレって、ホント駄目だよね~。」
誰が居るわけでもないのに、同意を求めるようにこぼした景時は、反対側の対から人影がさまよい出るのを視界の隅のとらえて咄嗟に体勢を整えた。
怨霊を退治して勝浦の宿へ戻って一息入れながら、望美と将臣は濡れ縁で別れを惜しむように言葉を交わしていた。知盛は「疲れた…」と一言、二人に背を向けて横になって寝入っているようだった。
二人の会話は必然的に声音を抑えたものになっている。
「ねぇ、知盛ってさ…。」
「あぁ?」
「何気にセクハラ大王だよね…。」
ボソリと呟いた望美の言葉に、将臣が盛大に咽せた。
以前から八葉の面々をはじめとして、誰からと無く想いを懸けられていた源氏の神子、望美。しかしそれらの想いは、他人からの思わせぶりな、または直接的な言動にどこまでも疎い本人に最後まで顧みられることはなく終わっていた。
源平の和議が成立し、まさか源氏で戦い抜いた神子が平家の将と恋仲になっているなどとは思いもよらなかった面々は、和議が成ってしまったことを内心悔やんでいた。だが、神子自身がこの地に残ることを決意し、その幸福に満たされた笑顔を見せられては何をどうできるはずもなかった。
望美を迎えた平知盛の屋敷では、日がな一日二人の仲睦まじい様子が見られるのだが、それを微笑ましいと思っている者ばかりではなかった。
その一(経正と敦盛)
「兄上!」
経正に追いついた敦盛は、兄の直衣の袖を掴んだ。
「敦盛…。」
気色ばんで追ってきた弟に、いつもの優しげな笑みを見せながらも、経正は恥ずかしそうに目を伏せた。
「驚かせてしまったようだね。」
確かに驚いていた敦盛は、この先をどう続けていいのかわからなかった。それを察して経正が続ける。
「知盛殿にもおまえにも、申し訳ない気持ちがないわけではない。しかし、私は…、怨霊の身でありながら在り続けるよう宣告された私は、もはやあの方への想いを断ち切ることはできそうにないのだよ。」
それは敦盛が初めて見た兄の、女性への執着だった。
「兄上…。」
敦盛は唇を噛みしめると、意を決して経正の手を握りしめた。
「私には兄上のように想いを貫き通す覚悟が足りませんでしたから、心から応援いたします。…神子は…。」
思わぬ弟の励ましに目を瞠る経正を、敦盛が見上げて笑った。
「知盛殿は勿論ですが、神子は手強いですよ。覚悟なさってくださいね、兄上。」
その言葉に経正も笑った。
「そのようだね、心しておくよ。ありがとう、敦盛。」
この夜、経正と敦盛は青山と青葉を傍らに、空が白むまで神子について語り合ったという。
その二(望美と経正と、…知盛)
久しぶりに知盛の許可を得て、望美は経正に琵琶を習っていた。望美にしてみれば許可など必要ない、と突っぱねたいところだったのだが、不機嫌極まりない知盛は、台風のように周囲を巻き込んで荒れ狂うので、困り果てた家人が望美のところへ訴えに来る。どうやら原因が自分らしいと感じていなくもない望美は、しかたなく知盛の機嫌が良くなるようなるべく言いつけに従って大人しくしていたのだった。
こうしてようやくの手習い中も、目付役のように知盛が二人を眺めている。
「すみません、経正さん。なんだか、どうしても私が教えてもらってるところを見たいらしくて…。」
経正は望美に、それから渡りの高欄に寄りかかるようにして自分を見ている知盛にも微笑みを向けた。
「かまいませんよ。知盛殿があそこに居られるということは、私の歌が本意であることをわかっていただいてるということですから。」
その言葉に、背後の知盛からかすかな殺気が漂ってきたような気がして、望美は話の接ぎ穂を探して口にした。
「…えっと、それにしても経正さんが鹿狩りなんて、意外でした。それも貴族としての嗜みなんですか?」
少し赤くなった経正が口ごもるのと、知盛が喉の奥で笑いをかみ殺したのは、ほぼ同時だった。
惟盛から届けられた文箱を前にして、望美は途方に暮れていた。
中に入っていたものは、優雅な香りを漂わせた優美な和紙。いわゆる「達筆」と賞されるべきなのだろう流れるような文字。そして艶やかに磨かれた玉が、柔らかな練り絹に幾重にもくるまれて納められていた。
先般に惟盛と会話したことが思い出された。
「近頃は、ずいぶんと貴女宛に文を送る輩が増えたそうではないですか?」
挨拶もそこそこに、渡殿での出会い頭にいきなり惟盛に声をかけられて、望美は驚いた。
この世界でいう「地鏡」は、私の知っている「逃げ水」と同じだった。それはまるで先生みたいに手の先をすり抜けていく蜃気楼だ。
見ていると誘うように、そこにある。なのに近づいた途端、身を翻すように離れてしまう。追いかけても追いかけても、追い越してしまうことはあっても、決して追いつけない。
なのに、追いかけるのを止めて立ち止まれば、また誘うように揺らめいて光る。その光が眼を、心を射る。痛くて泣きたくなるほど、辛い光。
私が望まない限り、先生は傍にいてくれるのに、願った途端に消えてしまうなんて、酷い。
先生の優しさは、残酷に私を引き裂く。
そう告げたら、先生は一体どんな顔で私を見るのだろう。一体なんて答えてくれるのだろうか、それともやっぱり、答えてはくれないのか。
私の中の問答が、私をさらに追い詰める。
今の先生との距離を壊したい。だけど、壊れた先はどうなるかわからないから、今はまだ自分の気持ちに気がつかないふりをする。先生は「八葉」の一人、剣の師匠、ただそれだけだと言い聞かせる。
もう少し、もう少しだけ運命を切りひらく自信が持てるまで。もう少しだけ、先生を見失わない確信が得られるまで。
だからどうか先生に、この気持ちを気づかれませんように。
どうか「鬼」の力で、私の心を読まないで。
たまたまなのか、わざわざか、惟盛が来ているのに気がついた望美は、いつ返そうかと思っていた文箱を取りに戻った。塗り物の表面にあまり自分の指の跡が付くのも嫌なので、袖に包むようにして持ちだすと妻戸から目当ての人物が通りかかるのを待ち伏せた。
今日は知盛が出かけているので誰に声をかけるのも気兼ねする必要はなかったが、望美の言動は不思議と知盛に筒抜けで、後になってあれこれと文句をつけられるのも面倒なので自然と隠れているような態度になる。理不尽だとは思いつつも、それが通じる相手ではないこともわかっていた。
衣擦れの音と漂ってきた香に覚えがあり、望美は惟盛と確信して部屋から顔を出した。
「惟盛!」
凪いでいた海が、これから始まる争いを予測してか、うねりを取り戻したらしい。
船の側面を洗うような波音の中に、知盛は人の声を聴いたような気がして目を覚ました。
「止めて…。」
聞き覚えのあるような声に、知盛の眉が上がる。すっかり眠気は去っていた。小さく舌打ちをして身体を起こした知盛は、ゆっくりした動作で甲板へと出た。
「いい天気だ…。」
聞こえてきた台詞に、思わず動きが止まる。望美が振り向くと、広いバルコニーの端で、柵を背に、抜けるような青空を背負うようにして、それを仰ぎ見る彼の姿。既視感に襲われて、体温が下がるのを感じながら、無意識のうちに知盛のいる所まで一気に駆け寄っていた。
望美がすがりついた胸の鼓動、確かな存在感。その温かさに安心して息を吐きながら、腕には一層力をこめた。
「…おい、絞め殺す気か?」
瞼の裏に明かりが忍び込んできて、心から離れぬ人の姿を浮かび上がらせた。不意に訪れた眠りの中の喜びに、銀は、はたと目覚めてしまった。
それ故に見失ってしまった影を惜しんで吐息を漏らせば、蔀の隙間から部屋の中へ差し込む光に気がつく。身体を起こして差し込む光に手を伸ばすと、冴え冴えとした光のまぶしさが彼女の面影を映し出すようで、切なさに眉が曇る。
「銀…。」
と、己を呼ぶ声さえ聞こえるような気がするのは、勿論ありうべきもないこと。しかしその姿を見、その声を聞きたいという願いが、その望みを具現化しようとして自らを騙そうとする。
ただ見ていることしかできなかった。貴方は関わることを許してくれなかったから。
「貴女は客人だ。その手を煩わせることなど、無い。」
にべもなく言われて。
それでも強引に押し通せば良かったの?そうしたら、わたしは、眠るように横たわる貴方を見ることもなかったと?
広い六波羅の屋敷の庭を、桜の花が覆い被さるように咲き競っていた。
「美しいこと。」
今では二位尼と呼ばれる入道相国の妻、時子は御簾越しに桜を愛でながら独りごちる。今、この対は静かで、穏やかに桜を見るのに相応しかった。いくつもの庇や渡殿を隔てた母屋では、清盛公が生前贔屓にしていた舞手や楽士を呼び寄せての宴で賑やいでいた。
かすかに桜を揺らす風に乗って、宴の調べが時子の元まで流れてきた。その儚い音色を聴くともなしに聞きながら、時子はため息をついた。
「いかがなさいました、母上?」
「…知盛殿。」
裡にも外にも、焼けるような熱さが迫ってくるのを感じて身悶えた惟盛の咽から、うめき声が漏れた。目を開けば、一面の炎が己を取り巻いている。焼けた空気を吸った咽が渇いて、絞り出す声も掠れて消え入る。助けを求めるように伸ばした腕が、炎に染まった虚空を掴む。我が身を責め苛む劫火の苦しさに、乾上がったのか涙さえ流れない。炎は見る間に迫り来て、今にも肌を舐め上げる勢いだ。
誰に助けを求めるべきなのか、惟盛は灼熱に耐えながら必死に相手を思い浮かべた。高潔の誉れ高き父か、それとも…。
「惟盛!」
梅は疾うに盛りを過ぎて、桜にはまだ早すぎる。その間を繋ぐように、桃の花が咲きこぼれているのは、譲が整えた梶原邸の庭。その庭を濡れ縁から眺めながら、望美は何度目かの溜め息をついていた。頭の中で渦巻く考えがまとまらず、身を捩って体を床の上に投げ出すと、まだ春というのは花影に揺れているだけなのだと思わせる冷たさが感じられて心地よかった。
さらに少しでも煮詰まった頭が冷えないものかと額を床に擦りつける望美の姿は、滑稽以外の何ものでもない。
「そういう姿もかわいらしいと言えば、言えますけどね。」
「俺ってホント、駄目だよね~。」
そんな風に言わないで。少しも駄目じゃないから、自分のことをそんな風に言って欲しくない。
いくら自分を恐れて命令に逆らわない部下だからって、頼朝さんはきっと無能な人を重用したりしないから。
河原の日当たりの悪い土手に、遅咲きの梅が最後の花をつけていた。
報酬につられて、ここ五条の小屋へ足を運んで手伝いを始めてから、もうずっとあの花が気になってしかたがない様子の望美を見ながら、弁慶がそれを指摘することはない。ただ、手順を間違えるようなことがあれば、それには容赦がなかった。
「望美さん、その二つは明らかに種類が違っていませんか?」
「っ!」
夜も更けきった子の刻も満ちた頃、景時は漸く自室へとたどり着いていた。こんな時間では、むろん誰も起きてなどいない。静まりかえった邸の中で、自分のたてる物音を気にしながら身体を休めるために横になろうとした景時は、微かに鼻腔をくすぐる梅の香に気がついた。
「…望美、ちゃん?」
ここにいるはずもない相手の名前がこぼれたのは、無意識だった。誰に聞きとがめられるはずもないとわかっているのに、景時はつい辺りを見回して照れ隠しの笑いを浮かべた。次いで大きく吐き出される溜め息。
「今日も出かけるの?」
朔の問いかけにこくりと頷いて望美が朝餉に向かう。朝に弱いこの子が、こんなに早い時間から連日出かけていくとはよほどのことなのだろうか、と朔は思った。ついこの間まで、恐らく兄のために何かを探していろんな所へ出かけていたかと思ったら、今度は弁慶殿の処へ朝から晩まで入り浸りだなんて…。
小屋の外、河原が何やら騒がしかった。それにつられて、望美の手元が止まる。
「弁慶さん、あの外が…。」
訳知り顔で微笑みを浮かべた弁慶は、選り分けていた薬草の束を籠へ戻して返事をした。
「そうですね、少し休憩することにして外へ出てみましょうか?」
「はい!」
望美も持っていた薬草を籠の中へ戻すと、弁慶の後を追うように立ち上がった。河原には何人もの子ども達と大人達とが、ばらばらと寄り集まって川面を指差したりしながら眺めている。
「あぁ、今日は上巳の節句でしたね。」
「望美さん、お疲れ様でした。」
約束の日が来て、弁慶の仕事の手伝いが終わったこの日、望美は弁慶から労いの言葉と景時に渡したいと希った品物とを手に入れた。
「いいえ、こちらこそありがとうございました。」
心から満足そうな微笑みを浮かべた望美を、未だ解放したくない気持ちがない弁慶ではなかったが、さすがにこれ以上は景時に悪い、とでも思うのか。
兎にも角にも課された仕事は終ったのだ。望美は嬉々として手にした物を大事そうに抱えて、梶原邸への道を急いだ。
そんな自分を見送る弁慶が、口許だけの微笑みを浮かべて呟く姿を振り返って見ることもなかった。
「まぁ、またいつでも彼女と過ごす時間は作れるでしょうしね。」
望美の心配そうに覗き込む顔が、すぐ目の前にあった。
「惟盛、大丈夫?」
「な…、にがです、か…。」
炎に炙られていた時のように、惟盛の声は掠れていた。
「だって、すごく苦しそうだったから。昨夜倒れたって聞いて、お見舞に来たんだけど…魘されてたよ。」
夢の中のことを知られるような気がして、慌てて身体を起こそうとした惟盛を、すぐに望美が止めようとした。
「っ、駄目だよ、まだ寝てたほうが…。」
「かまわないでください!」
その一(望美と知盛)
野分のような勢いで対屋の奥まで一気に駆け込んできた突風の様子を見るために、足を向けた知盛が見たものは、隅で蹲り、肩を震わせている望美だった。今日は己が出仕した後、迎えに来た敦盛と共に、御曹司の処へ出かけていたと女房から聞いていた。面白くない気分でいた知盛に、まず労るような言葉をかけることはできなかった。
「どうした?…御曹司が、儚くでもなられたか?」
知盛の言葉を理解できていない望美が、涙で濡れた顔を不思議そうに上げた。眉を顰めながら望美の側へ近づいた知盛は、膝をついてその涙を指で拭った。
その二(経正と敦盛)
「そうですか、惟盛殿が…。」
敦盛から話を聞いた経正は、沈痛な面持ちで黙り込んだ。その表情は、知盛と一緒にいる望美を見る時よりも重苦しく、経正が抱える懊悩をまざまざと伝える。
そんな兄の姿を見るのが辛くて、敦盛は目を伏せた。
「本当に兄上ときたら…。」
今日も、朔の景時批判は絶好調だった。景時のやること為すこと全てに、何か言うべき事が見つかるらしい。呆れ果てたようにちくちくと言葉の針でつつきながら、それでも朔が本当に腹を立てているわけではないことは、誰の目にもわかる。攻撃の的になっている景時でさえ、結局は困ったように笑いながら受け流していられるのだから、これは梶原兄妹にとって一種の娯楽なのかもしれなかった。
しかし、それを眺める望美の目はどんどんもの言いたげな気配を色濃くしていく。
この日、言いたいことを言い終えた朔を後に、冷や汗と苦笑を浮かべながら景時が去っていった後、望美はつい思っていることを口にしてしまった。
望美と景時は遣戸を背に、お互いが触れないだけの間隔を保って簀子縁に座ったものの、黙り込んでいた。話でもしようと誘った景時も、それに応じた望美さえも、すぐには何の話題を持ちだせばいいのか思い倦ねていた。
庭に咲く梅の花が、月影に馥郁とした香を漂わせながら、昂ぶる気持ちを静めてくれるかのようだった。
ようやく動悸が治まった景時が何とか自分から口を開くことができた時、どれほどの時間が経っていただろうか。その間はお互いにとって、長くも短くも思われた。
敢えて望美の方へ顔を向けることをせず、目の端でその横顔を捕らえながら景時が言った。
「…そういえば帰ってきてから聞いたけど、朔を羨ましがったんだって?」
どちらかというと地味な部類に入る花が目に入ったのは、偶然だった。
ついさっき思わず見とれてしまった白木蓮に似ているのに、あんな群れるような咲き方はしていないし、花も少し大振りだった。
幸いにも市へ買い出しに行った帰りで、一緒に歩いていた譲は花に詳しい。望美は迷うことなく質問を口にした。
「ねぇ譲くん、これさっきのとは種類が違うよね?」
「名残の花ですよ。」
艶やかな色合いの紅梅がわずかに残る一枝を、袖の上に乗せて惟盛が差し出した。望美は花を散らさないようにそっと受け取り、礼を述べた。贈り主はそれを受けて、満足そうな微笑みを浮かべて独りごちる。
「次に花の兄に逢うには、また一つ老いるまで待たねばなりませんが…。」
怨霊の私は老いることはない…と惟盛は言葉に出さずに呟いた。
「あの、文が…。」
受け取った枝に小さく結んである紙を見て、戸惑ったように望美が口ごもる。今更のようなことを口にする相手に、惟盛の眉が片方だけ上がって、微笑んだ顔に意地の悪そうな風情を添えた。
「ええ、もちろん。貴女には手解きをするという約束をしてありますから。」
「よく、知盛殿が許されましたね。」
月の光を浴びて佇む惟盛が、ゆっくりと振り返って言った。
枝垂れ梅の白さが月影を弾いて目が眩むようだ、と望美は思った。その輝きを背にする人は、天から降り立ったかのように美しい、と。
「別に許すも許さないもないでしょう?惟盛と梅の花を見るだけなのに…。」
実際には出かける前に、望美と知盛の間で一悶着ありはした。しかしそれはいつものことでもあって、望美にとって深刻な出来事とはならない。
「知盛殿もお気の毒に…。」
偶然見かけたその光景に、心臓を鷲掴みにされたように苦しくなった。
まだ幼さの残る安徳帝に接する知盛の様子は、今まで見てきたものとは明らかに違っていた。そんな表情も口調も持っていたのだと、望美はその時、初めて知った。
見えればお互いに殺気を纏い、突き放すような言葉しか交わさない。そして触れ合うのは、言葉よりももっと冷たく硬い剣の刃。別れた後には互いに流した血の臭いと、時間をおいて残る傷跡だけ。
それらより他に確かに残るものなど何一つ無かった。留めておきたいと願う傷跡すら、時が経てば薄れてゆく。耳に残る声音を思い返そうとしてみても、すればするほど雑音が忍び込み、不確かな響きにすり替えられてしまう。
ボフッと音がするほど勢いよく、望美は布団の上へ倒れ込んだ。
たった今、取り込まれたばかりの布団は暖かくふかふかで、お日様の匂いがするようだ。
よく晴れた週末の一日、せっせと洗濯をし、干し物をする景時を手伝った。その総仕上げに取り込んだ布団の上へダイビングする誘惑を、望美はどうしても我慢できずに実行してしまった。
「あぁ~、気持ちいい…!」
自分のも干せば良かっただろうか、とチラリと頭を横切る考え。今夜、こんな寝心地の布団にくるまれたら、きっと幸せな夢が見られるに違いない。
無邪気な爆弾発言が落とされたのは、満開の桜を愛でようと催された歌合わせの宴の席だった。
「私も神子殿の処へ通いたい…。」
名指しされた龍神の(元)神子である望美は、丁度、請われた舞を披露している最中で、経正と敦盛の兄弟も舞に合わせて楽をつけていたため、その言葉を聞いてはいなかった。
しかし、それ以外の平家一門の居並ぶ主だった人物は皆、一人残らずその発言の主を注視せずにはいられない。
「この間のプール、楽しかったよね。」
外出しない面々が集まってしまう有川家の居間で、譲が出してくれた紅茶を飲みながら望美が言うと、なんとなく空気が変わった。怪訝な気持ちを隠すことなく、望美はお茶を啜っている彼らに問い質す。
「何?」
まだ溶けきらずに残る雪に最後通牒を突きつけるように、春を忍ばせた雨が落ちる。雪の中から芽吹くものだけではなく、顕わになりつつある土の間からも待ちかねたように緑が顔を覗かせていた。
あれほど雪深いと思い知らされた平泉にも、やはり春が来るのが感じられて嬉しくなった望美は少なからず浮かれていた。忙しくて顔を見ることも叶わない許嫁の事を憂えることが多かったここしばらくの間には珍しいほど、心が浮き立っていた。なのに折も折、
「神子様、失礼いたします。」
いつものように銀が来て、いつもと同じ言付けを置いていく。曰く「今宵も帰るのは遅くなる。食事を済ませて、先に休むよう。」と。
「今日は、誰かを騙したり、嘘をついてもいいんですよ。」
望美に言われて、景時は面食らった。
今まで散々「嘘をつかないでください」とか「隠し事は無しですよ」などと釘を刺されまくってきたのだから、無理もない話だ。
「でも、望美ちゃん、なんでなの?」
景時は、恐る恐る尋ねた。「騙してもいい」と言っている望美が嘘をついていたら、泥沼になってしまうからだ。常に先の先まで見越して逃げ道を用意しようとするのは、戦奉行だった景時の悲しい習性だった。
「私ね、銀よりもっと好きな人がいるの、って言ったらどうする?」
途端、この世が終わったような悲痛な表情を見せられて望美は大いに焦った。そこへ畳み掛けるように銀が言う。
「そのようなお言葉を賜るくらいなら、いっそ「死ね」とお命じになるか、この胸に直接剣を突き立ててくださる方が、まだ慈悲深いというものです。」
そして跪かれて見上げられれば、望美にはもう抗う術がなかった。
「まぁ、人によると思いますけど…」
と、前置きして譲が教えてくれた今日の日。
「えいぷりる・ふーる」と呼ばれる習わしは、外つ国から伝わり、この世界に定着しているのだという。犯罪になるようなことまでは許されないが、ささいな事であるならば人を騙し、騙されることを笑い飛ばすのだと。
ヒノエは「そりゃ面白い」と言って、早速騙すべき相手を探しに行ってしまった。
私は…どうすればいいのだろうか。そう考え込んでしまっていたら、譲の声が聞こえた。
いつもと変わらず飄々とした将臣とは対照的に、望美はいたく不機嫌だった。
事の発端は言うに及ばす、エイプリル・フールの他愛ない嘘だったのだが、なぜかこの日をすっかり忘れていたらしい望美は嘘を本気にしてしまい、少なからず将臣を慌てさせた。慌てて種明かしをしてして取り繕ったのだが、望美はすっかりへそを曲げてしまったらしい。なだめすかしても険しい表情は変わる様子もない。
機嫌を取ることを諦めた将臣は肩をすくめると、早々に望美を放置して出かけてしまった。それがより一層望美を不機嫌にさせ、今や望美の両頬は威嚇する相手もいないのに膨れたフグのようだった。
昼食の後片付けをしていた台所へ、いきなり望美が駆け込んできた。
「譲くん、協力して!」
内心(今度は何をさせられるのだろうか)と思いつつも、望美に頼られれば持てる力以上のことで報いたいと思ってしまうのが譲だった。
訳を聞けば、あの兄に担がれたのがよほど悔しかったらしい。意趣返しをしようにも思いつかないので協力を要請に来た、というわけだ。
「…本当にしょうがないですね、先輩は。」
絶対に将臣か譲から聞いて、知っているに違いない。
望美がそう確信せざるを得ないほど、弁慶は涼しい顔をしていた。
「おや、もうお終いですか?」
いつもの余裕の微笑みで切り返されて、望美は言葉に詰まった。せっかく良心の呵責もなく、思いっきり嘘をつけるというのに、これでは面白くも何ともない。
周りの人物で、馬鹿が付くほど正直なのは誰かと聞かれたら、筆頭に挙がる九郎なのは誰も異存がないだろう。とにかく真面目で、真っ直ぐなのだ。
あまりに真っ直ぐすぎて、彼自身曲がることができずに壁や角にしょっちゅうぶつかっていることは、側にいる者なら知りたくなくてもわかった。
「不器用…なのかなぁ。」
「えぇっ、ヒノエ君の誕生日って今日なの?」
テーブルに並べられた手の込んでいそうな料理とバースデイケーキを、エイプリルフールの仕掛けかと思っていた望美は、思わず素っ頓狂な声を出してしまった。照れたように肩をすくめるヒノエに、望美もつい大きな声になったのを隠すように笑った。
「まるで、狙ったみたいだね。」
何が?と促すヒノエの視線に答えたのは、譲だった。
「え~っと、だから、今日は誰かを騙したり、嘘をついても許されるんです。」
望美が自分にできる限り丁寧に説明したにもかかわらず、リズヴァーンの顔から困惑が拭い去られることはなかった。いや、むしろその色は濃くなったように見える。
「…特段したくもないものを、なぜせねばならない?」
真摯な問いかけに、望美はしばらく考えあぐねた末に答えた。
「ふざけて楽しむというか、喜ぶというか…。」
「…嘘がどうした?」
いつもと変わらない気怠げな答えに、望美がもう一度言葉を重ねる。
「だから、今日は公に嘘をついても咎められたりしないの。」
「だから?」
「え…、だから、その、…嘘ついてもいい、かな~?…なんて」
腕の中の望美を見下ろす紫水晶のような瞳が細められて、咽奥で響くような小馬鹿にした含み笑いが聞こえた。
望美のつく嘘があまりにもたわいないので、経正は却って微笑ましくなってしまった。
一回り以上も年の離れた想い人を、愛しさの余り苛めたくなってしまう時がある。誰よりも大事にしたい、愛おしい相手であるのにもかかわらず、である。それは自分でも不思議なくらいだった。
下手な嘘を上手く収めようとして、余計にぼろを出してしまっている恋人に手を伸ばした経正は、勢いよくその身体を抱き寄せた。腕の中にすることが馴染んだ姿を覗き込めば、自分の嘘が通用していないことを自覚して、少し不満そうな望美の表情がまた愛しさを募らせる。
じっとりと正面から非難の眼差しで見つめられて、望美はいたたまれなくなった。
「は、白龍…あの…」
「神子。」
「は、はい。」
普段はただただ優しい表情で慈しむように自分を見る白龍の目が、こんなにも厳しく冷たくもなるのだと知って、望美は悲しくなった。しかもそんな目をさせた原因は、自分に他ならない。
「私は以前、神子に言ったはず。願いは言の葉にしなければ叶わない、と。…覚えてる?」
「…う、ん。」
久しぶりに京邸に戻ってきている景時の廂を目指しながら、望美の気持ちはまだ迷っていた。
もう何度目かの繰り返しになる季節。望美自身、もう戦う術においては大抵後れを取ることはなくなったと自負している。それに甘えて鍛錬を怠ったりはしないのだが、そろそろまったくといいほど手を着けてこなかった分野にも挑戦する潮時だと思った。
繰り返される年月の中であっても、長い時間を過ごすことには違いがない。それなら、やはり読み書きが出来た方が格段に都合がいいことはわかっていた。今までは誰かの手を借りたり、運命をやり直すことでなんとかなっては来ていたが、できないよりは出来た方が断然いいのだ。
自分達の世界に戻ってきて数ヶ月。やっとあの不思議な経験を思い出として落ち着きを取り戻したとおもったのも束の間。
望美は桜の花に、惟盛との別れを思い出していてもたってもいられなかった。あの時は、桜の花が狂ったように舞い散って、惟盛の髪にも衣にも桜の花片が、望美の気持ちを代弁するかのように縋りついていた。
とうとう惟盛に圧されて彼を封印することになったとき、応龍は望美の願いを叶えるべく、惟盛の魂魄に印を刻んでくれていたはずだ。現代に戻った望美はただ、生まれ変わっているはずの惟盛と出会うのを待つしかない。
全ての記憶を取り戻した当人を高館の一室へ迎え入れると、望美と将臣、そして敦盛は、ただ銀を見つめた。
最初は何も知らず、銀を知盛と疑っていた望美も、今は彼が知盛の弟、平重衡であることをわかっていた。知盛と銀の接点を求めて逆鱗の力を借りた六波羅の邸で、十六夜の月と桜とお互いだけが知る邂逅。あの邂逅がなければ、あるいは重衡は鎌倉の術中に陥ることはなかったかもしれない、とも思えて望美は辛かった。
「景時さんて、すごいですね。」
満面の笑みを浮かべて、いつもの屈託無い仕草で、身動ぎしただけで触れてしまいそうな距離を望みに詰め寄られて、景時は動けなくなった。
「な、なんのことかな~?」
前置きもなく、いきなりの言葉に平静を装いながらも景時の背中を冷や汗が流れた。
(オレ、何かしたっけ?)
心当たりもないのに動揺してしまうのは、自分でも厭になる時があるのだが、景時にはどうしようもなかった。
軍議が終わって、総大将の九郎が腰を上げて陣屋を出て行くと、主だった顔ぶれも三々五々散っていく。
いつもと違っていたのは弁慶だけが残って、未だ広げられたままの地図を睨みつけていることだった。いつもなら軍議で九郎と意見が対立するのは景時だったが、今日そうしたのは弁慶だった。いつもと違う、ということに違和感を感じているうちに、望美自身もいつもと違う行動を取っていた。
いつもの望美なら絶対に、微かに眉を顰めて何かを見ている弁慶に声をかけたりしなかった。
「あの、弁慶さん…大丈夫ですか?」
弁慶は、望美の方へ視線を向けることもせずに「何がですか」と聞き返した。
客として門をくぐった曾ての仲間は、廊下ですれ違いざまに、以前と変わらず親しく声をかけてきた。
それなのに、にこやかに挨拶を交わしたのも束の間いきなり手首を掴まれて、引き寄せられた。悲鳴をあげる間もなく口をも塞がれ、引き摺られるようにして塗籠の中へ押し込まれる。望美は相手が意に介さないことは承知の上で、眼光で非難を伝える努力だけはした。尤も明かり取りもない塗籠の中、灯りも点さずにいてはそれが功を奏することなど有り得なかったが。
突然の闇の中へ閉じこめられた望美は、ただ自分の口元を覆う掌と指先、寄り添うように押しつけられた体温、そして静かな息遣いと自分の頭の中に谺する鼓動とを意識して、押し潰されそうな感覚に襲われた。
眩しいくらいの笑顔と一緒に、差しのべられた手。それをつい反射的に掴んで、引き寄せてしまってから、オレはどうしたらいいのかわからなくなった。
すぐにでもこの手を離して、いつものように笑って誤魔化さなくちゃいけない。わかっているのに掌が溶けたか、氷付きでもしたように引き剥がせないんだ。
…君が、何も言わずに手を掴んだまま動かないオレを、訝しげに見上げるまで数瞬しかないのに。
それとも、これも夢なのか?
見るといつも辛くて、胸が押し潰されそうになって跳ね起きてしまう、あの呪われた夢。
「いつも幸せそうだ」とか「笑顔に癒される」と貴方は言うけれど。
そう見えるのは貴方がいるから。
貴方が傍に居てくれるという事実を噛みしめて、わたしがどれだけの幸福感を味わっているか。それを貴方にわかってもらいたいから精一杯微笑んで、この幸せを伝えようとしているけれど。
いつか貴方にもちゃんと伝わるだろうか。
貴方が居てくれてこその、この幸福。私の幸せに、貴方が欠くことは出来ない大事な存在なのだと。あなたの存在に、わたしがどれだけ感謝しているか。
わたしは貴方にきちんと伝えることができるだろうか。
わたしだけが強いのではなく、貴方だけが弱いのではない。
わたしだけが幸福なのではなく、貴方だけが不幸なのでもない。
貴方がいるからこそ、いてくれるからこそ。
一人ではないから。互いに支えあっている部分があるから。貴方の存在に幸福を感じられる。
そのことをいつも伝えたいから、わたしは今日も笑顔を向ける。
貴方がわたしの幸せの理由に気がついて、わたしに幸せを与えている自信に溢れて、笑い返してくれるまで。
見慣れた顔が見えたから、何の躊躇いもなく声をかけた望美だった。
「惟盛!」
背後からの呼びかけに肩を揺らして、ゆっくりと振り向いた惟盛が口にした言葉は…。
「不愉快です。」
望美の目が丸くなる。今までも惟盛の機嫌を損ねたことは何度もあったし、苦言も嫌みも、贈られてくる文以上に頂戴している。だが、出会い端にいきなり「不愉快」を突きつけられることはなかった。
心当たるものがなかった望美は、恐る恐るながら惟盛に尋ねてみた。
「ど、どうかしたの?」
「どうして貴女は、いつも私を呼び捨てるのですか!」
「えっ…、どうし…てって?」
桜の花もすっかり落ちて、枝には鮮やかな新緑が宿っているのが遠目にもわかる。
「もう霜で大地が凍ることも無くなります。これから、農家は忙しくなるでしょう。」
泰衡の真似をして平泉の土地を見て回る望美の後に付き従いながら、銀が説明する。少し前までは雪解けで泥濘み、あやしかった足下も、今ではすっかり確固として心配もいらないほどだった。
「空気もあたたかくなってきて気持ちいいものね。…泰衡さんも、もう少し仕事が少なくなれば一緒に出かけられるのにな…。」
少し寂しげに小さくなる言葉尻を捉えた銀は、望美の前に回り込んで素早く跪くと見上げて訴えるように言った。
「神子様、私がご一緒するだけではご不満でしょうか?」
ほとんど日課になりつつある元・龍神の神子、望美の元へと通う道すがら、惟盛はふと昔を思い出した。
かつては恋路と思いながら通った道は、こんな風に明るくはなく、考えてみればこれほど差し迫った気持ちもなかったような気がしてしまう。もっとも怨霊となって甦ってから、生前の記憶は欠けたり、薄れていく一方だったが。
目指す邸の門へ足をかけようとして、中から出てくる人影に気がついた惟盛は足を止めた。己と同じく神子の元へと通う一門の公達、平経正が琵琶を抱え、後ろに弟の敦盛を従えていた。惟盛に気がついた経正も足を止めた。
「これは惟盛殿、これから神子殿の所へ参られるのですか?」
「…って、惟盛が言ってたんですけど。」
望美は言われたとおり、疑問に思ったことを本人に聞いてみることにしたのだった。
大切なものを扱う仕草で琵琶を仕舞おうとしていた経正の動きが、止まった。ゴトリとした音に望美が顔を向けると、見えたのは初めてとも思えるほどに強張った顔の経正だった。
震える手で、絹布で半分包まれた琵琶を抱え直しながら、経正は、「今すぐこの場から走り去りたい」と、心の中で涙ながらに思っていた。
─惟盛殿、仕返しにしてもあまりな…!
もちろん経正の口から、望美が答えを得られることはなかった。
「…惟盛殿っ!」
緊張したような声に呼び止められて振り向くと、敦盛が思い詰めた表情のまま頭を下げた。
「これは敦盛殿。わざわざ私を呼び止められるとは、どのようなご用でしょうか?」
いつもと同じように笏を口元まで持ち上げて微笑みながら、惟盛の視線は貫くように冷たく感じられた。一瞬怯んだ敦盛だったが、袖の中で握りしめた手のひらで己を叱咤激励して口を開いた。
「あ…、あの、兄上がどのような不興を蒙りましたものか、お聞かせ願えないかと…。」
惟盛の眉がぴくりと上がったのを見て、敦盛の言葉は尻窄まりになる。それに被さるようにして、居丈高な惟盛の声が響いた。
「…わぁ、綺麗…!」
大振りな鉢に仕立てられた大輪の花を見るなり、望美の口から予想通りの感歎の声が溢れたことに、居合わせた主従二人の口元が緩んだ。
「神子殿のお気に召したなら、幸いだ。」
口元が緩んだことなど気取らせず、泰衡が無愛想に呟いた。望美は泰衡の素っ気なさにはすっかり慣れてしまっていたので、今では以前のようにそれを気に留めることもせず、このくらいのことなら銀に聞いた方が早いことも学んでいた。
「これ、どうしたんですか?」
「将臣殿、少々尋ねたいことがあるのですが…よろしいでしょうか?」
「なんだ、敦盛…って、おい、どうしたんだよ?暗い顔して。」
将臣が思わず尋ねてしまうほど、敦盛は憔悴していた。普段ならその辺の女房達よりよほど目を惹く(と言うと本人が傷付くと知っているので口には出さないが)容が、青ざめ、隈取られ、実のところ生者ではない境遇を思い起こさせるほどだった。
先日来の歌舞音曲の話題に挙がった「青海波」に端を発した頭痛の種は、未だに経正を、延いては敦盛を悩ませていた。
「…あ、あの。」
元・源氏の神子である望美が知盛に付き従うように平家へ身を寄せてから、その周囲には花に群がる蝶のように、名のある人々が訪れていた。
明に、或いは暗に望美へ好意を示す訪問者達は、知盛にとって小さからぬ頭痛の種ではあった。
しかし、本当に知盛が気を抜けず警戒していたのは誰あろう、歳も一つしか変わらなければ、雰囲気こそ違え顔の造作もよく似た、弟の重衡であった。
重衡と望美が顔を会わせたとき、二人の間にあった緊張を知盛が感じないはずがなかった。
望美は勿論、重衡も、とりたてて何を言うでもなかった。しかし、それ以来、重衡はあからさまに望美と知盛とを避けていた。
「まったく、神子殿は人脈が豊かなことだ…。」
独りごちた知盛の口調は、いつになく苦々しく、他に聞く者もいない廂の中に響いていた。
「今日も曇り、か。はぁ…。」
そういって盛大な溜息をついたのは、この邸の洗濯奉行こと梶原景時。
望美は、その溜息を聞きつけて素早く景時の背後へと回り込んだ。
「駄目ですよ、景時さん。溜息ついてる間にサッサと干しちゃいましょう?気温は高いんだから、干しちゃえばちゃんと乾くじゃないですか!」
近頃は、夜の帳が下りてくるのが確実に遅く感じられるようになっていた。
いつになく話し込んでしまい、望美の前を辞去するのが遅くなってしまったのも、夕闇の訪れが感じられなかったせいなのだと、経正は自分に言い訳した。
「折角だから晩ご飯とかも食べていきませんか?…今日は知盛もいつ帰れるかわからないって言ってたから、一人で食事するの寂しいなって思ってたんですよ。」
ふわりと、曲のある豊かな髪をかき上げながら華やかな微笑みを浮かべる姿。
さらりと、真っ直ぐに流れ落ちる長い髪を払いのけて不敵な笑いを浮かべる姿。
そんな二人に両脇から挟まれて、決して笑っていない瞳で微笑まれながら、景時の背中を流れ落ちる冷や汗は滝のようだった。
望美が、まだ眠気を振り払えない頭で目を擦りながら厨へ足を踏み入れると、出迎えたのはいつもの譲のさわやかな笑顔ではなく、まだ付いている土も乾いていない積み上げられた筍の山だった。
「ど、どうしたんですか?」
挨拶より先に疑問が口に出てしまった望美を、土間に腰掛けて水を飲んでいた九郎は咎めもせず朗らかに答えた。
「…おだまりなさい。」
─今は。…そう、黙って。
いきなり抱きしめられた惟盛の腕の中で、望美はその整った顔が寄せられるのを他人事のように感じていた。
いかにせん思ひなぐさむかたぞなき あらまし事もかぎりこそあれ
呟くように詠んで、経正は溜め息をついた。先日から、いったい一日のうちに何度溜め息をついているのだろうかと考えることも、もう止めてしまっていた。
「光る君」の話をきっかけに惟盛の不興を買って以来、知盛の邸へ、望美の処へ足を向けるのも躊躇われて、気持ちは更に鬱屈していた。
心配した弟の敦盛が、当の惟盛や望美に尋ね、将臣にも助言を得て、己の気鬱を払おうとしてくれているのがわかっていながら、経正は何をする気も起こらないのだった。
久しぶりに馬上の人となって、福原の雪見御所を離れた経正には目的の場所があったわけではなかった。ただ己のこと、身の回りのこと、これからのこと、そして思い煩うことを止めることが出来ない相手のことを一人落ち着いて考える場所があればと、当て所なく馬を走らせた。
気がつくと経正は、小高い場所から磯に打ち寄せる波頭を見下ろしていた。
既に日も傾き、これから取って返しても福原に帰り着くのは遅くなる。馬上では止めどなく、あらゆる感情と思考が渦巻いていたが、意味のある結論には結びついていなかった。
「今宵は波音を相手に、夜通し語り明かしてみよう。」
─見たらダメだ。
そうは思ったものの、目は自然に吸い寄せられていた。混沌とした戦場で、大胆に切り込んで血飛沫の華を散らす姿。踊るように、刀で風と人とを薙いでいくのは敵方の武将、平知盛。
敵なのに惹かれて、目が離せない。
「神子!」
望美は誰かが、何かを伝えるために自分を呼んだのを聞いたような気がした。だが、それが誰だったのか知る前に、紫水晶の視線に絡めとられた。
「神子様…。」
呼びかける声が、熱を帯びていた。真っ直ぐ見上げられる紫水晶の瞳にも、いつもの訴えるような影だけではなく、何か怪しげな炎が揺らめいているように思えるのは考え過ぎなのだろうか、と望美は思った。
二人で街を歩いている時だった。
知盛がふっと笑いを浮かべたような気がして、そちらを向くと、ビルとビルの間の隙間のような路地へ入り込むように手を引かれた。
疑問を口にする間もなく、突然覆い被さるように抱きついてきて、両手を一つに縛められたと思ったら、壁に押しつけられていた。
「…なっ!」
真言を唱える景時の声に、望美は場違いだと思いながらも聞き惚れていた。普段の気を遣った柔らかい物言いも、戯けて笑わせようとする口調も好きだったが、真剣な表情で真言を紡ぐ心持ち低くなった声も、やはり耳に快く響くから。
だから、怨霊を封印して景時が望美の戦い振りに声をかけてくれた後、つい縋りつくように抱きついてしまったのは、その声に酔っていたせいだと望美は思った。
普段なら、絶対しない。景時を困らせるだけになるとわかっているし。
同じ敵を相手にした戦いに立っていなくても、周りには他の八葉がいる。後で何を言われるかわからない状況は、できれば避けたかった。
「今宵、望月の美しさは格別ではありませんか?」
そう言っていつになく上機嫌で杯を飲み干し、いくつもの歌仙の歌をひきながら空を振り仰ぐ惟盛に、「本当ですね」と相槌を打ったのは先の一五日、望月の宵だったと経正は思い返していた。
あの夜とは対照的な今宵は朔月で、夜空に見えるのは撒き散らしたような小さな星ばかり。そして隣にいるのは心なしか沈んだ表情の敦盛だった。
つい先ほどまで兄弟二人は、それぞれに愛用の琵琶と横笛をもって音を合わせていた。しかし見た目にもありありと思い煩っている敦盛を映すように、今日の横笛の音色は生彩に欠けており、経正は区切りの良いところで休憩を提案したところだった。
「さぁ、望美さん。これを飲んでください。」
横たわる望美の枕元へやって来た弁慶が、煎じてきたらしい薬湯を手に微笑んでいた。その手に携えている木椀からは、形容しがたい臭気が漂ってくる。
シブキと呼ばれる、この季節には花を付けた姿があちこちで見られる薬草は、十薬とも呼ばれて全草が何らかの病に対して効果を持っているのだと、以前説明されたことがあった。外用にも内服にも使われ、常備薬としては優秀で重宝するのだと楽しそうに話してくれたのは、間違いなく弁慶だった。
前回寝込んでしまった時も同じように、飲むことを促されたそれを思い出して、望美はいきなりかけていた袿を頭から被って懇願した。
「もう一度あの人に逢えるのなら、なんだっていいの。」
朔がそう言うのを何度も聞いていた望美は、だからこそ無理を承知で白龍に頼み込んだ。何も欲しがらない対の神子・朔の、たった一つの願いを、せめて一時でも叶えられたら、そう思ったから。
幼い姿とはいえ、存在を取り戻した黒龍の世話を焼いて、朔は幸せそうに見えたが、時には溜め息をつくことが無くなったわけではなかったから。
「だから、お願い!」
陽の下で、扇の一つも遮るものなく、女人の顔を見ることがあるなど思ってもいませんでした。
しかも貴女の笑顔は、あまりにも愛らしくて。…私はあの瞬間、言葉を失い、目を奪われていたのです。…そして、恐らく心をも。
こうして後から思い返せば、貴女の事を言葉に託して残してみようと思わなくもありません。
ですが、こうも思うのです。
貴女の笑顔を心の中に焼き付けていられれば、それだけでも十分だ、と。
朔の誕生日の翌日、困ったように互いを見交わす白龍と黒龍の神子と、開き直ったように尊大な態度の(大きいままの)黒龍と、憤懣やるかたないといった表情で対の龍に食ってかかる(小さいままの)白龍がいた。
「私は朔を幸せにするために、この姿が必要なのだ。…諦めろ。」
「私は神子のためにそうしたけれど、対の過ぎた願いまでも聞くつもりはない!」
梶原邸に戻って来るなり、黒龍は白龍に分け与えられた五行の気を返上し、元の幼い姿に戻ることを拒絶したのだった。二人の神子は龍神同士の諍いに口を挟むことも出来ず、ただ成りゆきを見守っていた。
─月に棲んでいるのは兎だけじゃないって、…望美ちゃんは知ってるかな。
一頻り昔馴染みの客と賑やかに、月を肴に語らった後、独り釣殿に残っていた景時は思った。
客の一人が言っていた。
「月には蟇蛙までもが棲むといいます。桂の宮に月の姫、玉兎、存外月の都も騒がしいものかも知れませんなぁ。」
独りになったのを幸いに、ひやりとする床の上に手足を投げ出して仰向けに寝転がる。少しだけ視線をずらせば、中空には冴え冴えと満月を湛えた星月夜。
黒龍の神子・朔と共に望美の相談に「八葉との絆を深めることは大事だよ」と答えておきな がら、白龍は自らの胸に渦巻く矛盾した感情を持て余していた。
(でも、この気持ちは初めて、ではない。)
八葉と共に寝起きする廂を脱けて、簀子縁に出た白龍は高欄に頭を凭せかけて座り込んだ。
「…白龍?」
聞こえた呼び声は、自らの願望かと思った。しかし再び、声が白龍を呼ぶ。
偶然を装ってみたものの、それが上手くいったかどうか泰衡にはわからなかった。
しかし九郎や銀のいうところを信ずれば、あまり他人から受ける情の機微というものに頓着しない龍神の神子のこと、下手に気を回す必要もなかったのかもしれないとさえ考えたが、直ぐに否定した。
頓着しないからこそ、誰に対してもありのままを告げるのが、この望美という娘であることを思い出したのだ。
それは重苦しい湿った暑い空気が不快な夜で、寝苦しさに耐えきれなかった望美は、褥を抜け出して床の冷たさに涼を求めていた。しかし、ひやりとした感触は直ぐに温さに取って代わる。自分の体温と同じほどになれば、もう同じ場所に突っ伏している意味は無く、這うようにして場所を変えるしかない。望美は少しずつ移動しながら、とうとう蔀戸にぶつかってしまった。
「うぅ…暑いよぉ。」
時空跳躍をした先で、望美は運良く六波羅の平家一門の邸が建ち並ぶ場所にたどり着いていた。華々しく貴族の屋敷の建ち並ぶ大通りには、どこか優雅な物腰の人々が行き交い、子供さえ着飾った禿姿で、元居た場所と同じとはとても思えなかった。頭を巡らすと見覚えのある参議の邸には、花こそ付いてはいないものの、桜の大樹が伸ばした枝に豊かな緑を繁らせていた。
望美はスカートのポケットを探って、数年先で譲に作ってもらったものがちゃんと持ち出せていることを確認した。目指す相手がどこにいるのか定かではなかったが、そんなことを言っていたら時空を超えてきた意味が無くなってしまう。このアイテムを活かすためにも、夏の押し潰されそうな暑さの中でぐずぐずしているわけにはいかなかった。
意を決して顔を上げると望美は先ず、別の時空で何度か訪れたことのある邸を目指して足を踏み出した。
「…そんなところで覗いていないで、こちらへ来ればよいでしょう。」
簀子縁で行きつ戻りつしていると、痺れを切らしたのか、とうとう中にいる惟盛に声をかけられた。
望美は一瞬飛び上がるほど驚いたものの逡巡の末ゆっくりと、この廂の主の言葉に従って足を踏み入れた。
屏風の影で礼装を解いているらしい惟盛の、余りすぎる背丈故に屏風を越えて見える頭部に既に冠は無く、緩やかにうねる柔らかそうな髪に望美は目を奪われた。
近頃になって漸く惟盛との距離を縮められたと感じるようになって、望美にはいろいろと欲が出てきていたのだが、その一つに「惟盛の髪に触る」というものもあった。
カタリ、と音がして屏風が裏から畳み寄せられると、惟盛の全身が現れた。冠や平緒、魚袋も石帯も見当たらないが、他は普段とそれほど変わりなく見える。
己の傍近くに無防備に座り込み、剰え日頃から目のやり場に困る伸びやかな脚を投げ出している望美に、惟盛の外に漏らさない溜息は深かった。
異世界から神子として、龍神に召還されて来たという少女は、これまでに逢ったどんな女人とも違っていた。この世の常識などに当て嵌められるつもりもなさげに、奔放に振る舞う言動のどれ一つをとっても予測がつかない。呆れるやら腹が立つやらで、女人相手に寛容であることは当然として育ってきた惟盛には珍しく、望美相手には厳しい物言いをしてきたという自覚があった。
それなのに、気がつけば望美は惟盛の後を追うようにまとわりついて、慕ってくるようになっていた。
きっと高価なものに違いない、惟盛の直衣の胸元辺りを握りしめてしまっているのは、望美がどうしていいのかわからず混乱しているからだった。皺になってしまわないだろうかと気にしながら、もっときつく握りしめてしまう。
将臣がいなくなってから、急に近づいてきた惟盛の腕の中にすっぽりと収まっているような状態で、いつもなら見上げても遠いはずの顔が耳元まで寄せられているという現実に、心臓が破裂しそうなほど激しく脈打っている。耳元で紡がれる言葉も、息遣いさえ感じられそうな笑い声も攻撃力を増していて、「気をしっかり持たなくちゃ」と自分を鼓舞しなければ、膝から頽れてしまいそうだった。
「…こ、惟盛、あのっ…。」
今日の手本として示したものを横目に苦心惨憺、望美が白い紙の上にたどたどしい筆遣いで文字を書き連ねていくのを眺めながら、惟盛は近頃の己を戸惑わせている感情について思い倦ねていた。
一間も離れていない場所で、所構わず墨を跳ねさせている異界の娘が、どうしてこうも気になるのか。考えてもなかなか答えは現れてくれなかった。
必死に手習いをしている姿は幼く見えもするが、聞けば歳は十七を数えるという。常ならば文を交わし、通う者の一人や二人あってもおかしくない年頃ということである。言葉を交わすには不自由が無くとも、読み書きが十分ではないと聞いたときに、未だに生娘らしい境遇を少しく納得もしたのだったが。
望美に手を引かれるようにして、その場を逃げ出した。
背後には、遠ざかる惟盛の呆れたような怒気を帯びた声が聞こえる。子供のように笑いながら自分の手を引く彼女の表情に遅れないようにと、経正は足を動かした。
戦場でもないのに、こんな風に走ることになるとは驚きだった。しかも、生死がかかっているわけでもない。他愛ない悪戯の果てに。
記憶の彼方にある幼い頃、まだ弟も生まれてはいなかった子供時代以来の駆競べだった。
無論、追い越そうと思えば追い越せるが、目の前に踊る藤色の髪と、時折心配そうに振り返る表情とを見られなくなるのが惜しくて、経正は望美に合わせて遅れないように走った。
「なんだか流れ星みたい!」
空を仰いだ望美が指し示した先には、青空を斜めに切り裂いたように飛行機雲が走っていた。
最初にその雲に気付いて空を指していた九郎が、まだ空を見上げたままで怪訝そうに呟く。
「いや、昼間に星が見えるはずがない。…あれはただの雲じゃないか?」
もちろんその言葉には他意はなく、口に出されたままの意味しかない。
それでも望美は、少し不満げに頬を膨らませた。
「夢がないなぁ、九郎さん。」
捕らえようのない風のように、手の中をすり抜けて、目の前から消えてしまう後ろ姿。
わたしの気持ちに耳を傾けてくれることもせず、先生はいつも背中を向けてどこかへ行ってしまう。
どうしたらその行方を知ることが出来るのか、教えることができる人はどこにもいない。
でもそれがわからないからことを理由にして、探さずにいられるわけじゃない。
勿論、言い出したのは還内府と呼ばれていたこともある将臣だ。
「俺たちの世界では、その日の前夜から徳のある人物が、行いや心がけの良い民草に施しをしてくれるんだ。」
と。
「徳のある人物」という形容や、その身につけている装束が一門を象徴する色だということも手伝ったかもしれない。気がつけば主だったものを巻き込んで、計画遂行のために事は着々と進んでいった。
「これを私に、ですか?」
差し出された包みを見て、経正は微かに首を傾げた。
「今日は、わたしの居た世界でバレンタインって呼ばれる日なんです。」
最近聞いた覚えのある耳慣れない言葉を聞いて、今度は経正の眉が微かに曇った。
(確か…将臣殿が口にしていた祭事だった、ような。)
「で、その…仲良くしたい相手にお菓子とか贈って、お願いするっていうのがその日の風習で…。」
「あぁ。」
早春に霞のたなびく暁の景色は、さながら幽玄の世界だった。
昼間には漸く春めく日も珍しくなくなってきた時期だったが、暁の空気はまだ身を刺すほどに冷たい。銀はいつものように自分の得物を握りしめ、ゆるやかな動作から鍛錬を始めた。
身体に血が巡り、動きに勢いが増す。優しげな顔立ちとは似つかわしくない鋭い鋒が、空を切る。
数刻後、息一つ乱さず動きを止めた銀は、未だに消える気配のない霞が、曙に染まりつつある空を眺めた。
最近の銀は、この時刻を専ら物思いに充てていた。
望美は妙な気分だった。なんとなく、いつもと違って落ち着かない。それが妙に不自然な言動に結びつき、結果的に居心地の悪さを生んでしまっていた。
譲が、ここ数日眼鏡をかけていない、それだけのことで。
ちょっとした不注意だったのだ、と譲は言った。ぶつかりそうになったのを避け損ねて、眼鏡だけが被害にあった。…といっても、レンズが割れるような最悪の事態には至らなかったのだから、幸いだったのだが。
寒風の吹き荒ぶ梶原邸の庭先、半ば放心したように立つ敦盛に、ゆっくりと白龍の影が近づいた。
「おかえり、敦盛…。」
声をかけられたことに意を決して、敦盛はゆっくりと背後を振り返った。
見下ろす白龍も、見上げる敦盛も、お互いの瞳の中には紛う事なき喪失の哀しみが宿っていることを見て取った。
「…ちゃんと、送り届けてきた。神子は、もう…」
傷つくことはない、と続けようとした敦盛の掌の中で、いつも望美が首から提げていた逆鱗が微かに震えて、砕けて消えた。
「…っ!」
驚いて狼狽える敦盛の肩に、白龍が静かに手を添えた。
「聞かせてくれてもいいじゃない…。」
「…歌いません!」
もう何度目かの押し問答を続けているのは、望美と譲だ。
歌え、歌わないと、ただそれだけのことに費やされている時間なのに、眺めている誰の眼からも、その光景が険悪でないことは明らかだった。
「…譲君のケチ!」
大きな邸の門をいつものように、両側に立つ門衛に笑って挨拶しながら駆け抜けていくそれは、この地の「姫」と呼ばれるような女人なら決してあり得べからざる姿だった。しかし、今となってはすっかり見慣れたものだけに、彼らも笑って応えられるようになっていた。
その心持ちとしては、多分に親兄弟が幼子を見守るのに近い。事実、酒の席で望美が話題になる時の話され様は、子供を心配するようなものばかりだった。
「神子殿、明日はいかがしておられますか?」
朝からずっと将臣の邸で膝を向かい合わせて、何やら難しい話をしていた経正が望美に声をかけてきたのは、もう空も暮れ始める刻限だった。
「明日、ですか?いえ特には何も。あ、でも、そういえば…。」
ここ最近の陽気に誘われるようにして気の早い桜が咲き始めているから、と京の梶原邸から花見の誘いを受けていたことを思い出して、望美は口籠もる。
(行く、って朔にも景時さんにも言っちゃったし…。)
花見に水を差す形となった突然の雨は止むことなく、しかし雨脚が強くなることもなく、ただ静かに空気の中に水の気を忍び込ませていた。細かな水滴が物音を吸い込んでしまったように、辺りは静まりかえり、声高に話すことも控えたくなるほどだった。
九郎と弁慶は別の用があるからと、しばらく前に堀川邸へ帰って行った。
望美はというと、のべつ幕無しに言葉を連ねながら、未だ梶原邸に留まっていた。周囲は暮れなずみ、家人が厨で慌ただしく立ち働き出す気配も伝わってくる。
「夕餉も一緒に食べていくかい?」
朔が厨の様子を見に座を外すと、景時が尋ねてきた。
「…え?」
きょとんと見返す望美に、景時は頬を掻きながら困った顔で笑う。
「今日の望美ちゃんは、ちょっとおかしいね。…なにか、気になることがあるんでしょう?なのに確かめに行かなくていいの?」
麗らかな午後の日差しに表情を綻ばせながら、そぞろ歩く惟盛の歩みが不意に止まったのは、繁みから突き出している幼子の下半身が纏っている衣に覚えがあったせいだった。
「み…、いえ、言仁殿、かようなところで何をしておいでなのですか?」
努めて柔らかく問いを発した惟盛だったが、返ってきた言葉に思わず眉を顰めた。
「惟盛殿もこちらへ、早く!」
よく見れば、先の帝であった幼い言仁よりも大きな体の人物が、その横に真似も出来ないほど器用に身体を縮こまらせて隠れていた。
「…重衡殿、貴方まで一緒になって、一体何を…」
仁和寺の仁王門を走り抜けると、望美は程なく御室桜の低い枝の下に立っている経正を見つけることが出来た。
どこで見かけるどの桜よりも低い枝振りは、平家一門の他の公達同様にすらりと高い身の丈を、更に強調して見せていた。
ふと思い立って歩調を緩めた望美は、猫のような忍び足を真似て経正の背後へと近づこうと試みた。
「今日はお淑やかなのですね、神子殿?」
「先輩、食事が済んだら、ちょっと時間をもらえますか?」
いつものように夕餉の支度を手伝っていた望美は、譲からいきなり耳打ちをされて戸惑った。…一歩離れて物言いたげな視線を向けられることはよくあるが、公な用でもない限り直接働きかけられることは、これまであまりなかったからだ。
「う、…うん。」
歯切れが悪いながらも返事をすると、譲は明らかにホッとした笑顔になった。
「それじゃ、後で。」
そう言われて膳を調え終えて、皆と食事をしたものの、後のことが気にかかったままの望美は何を口にしても味わえたような気がしなかった。
「神子殿、そろそろ参りましょうか?」
出し抜けに声をかけられ、手を差しのべられた。
直ぐには理由が思い当たらず、当惑に揺れる瞳で相手を見返せば、手を差しのべた本人は揺るぎもせずに微笑んで返した。
「…もう花も終わりなんですね。」
連なる桜の枝の下を歩けば、柔らかく差し込む陽光(ひかり)の間を縫うようにして花片が降り敷く。
もう暫くすれば、頭上の花は足下を覆い尽くしてしまうだろう。それはそれで美しいけれど、やはり寂しさを感じずにはいられない。
そんなことを考える自分が不思議で、望美は独りごちた。
「これが平和…って事なのかな。」
戦に明け暮れている時も桜は咲いていたし、散っていったけれど、こんな風に感じることはなかったように思えた。
宵闇の辺り一面には、広く張り出した満開の桜がある。薄墨で描かれたような濃淡を重ねて、盛りを迎えたその花片は、微かな風にも震えて散り急いでいるように見えた。
その枝の下を漫ろ歩くのは、緩やかに波打つ髪を結い上げもせず、纓を垂らした冠を付け、直垂に身を包んだ長身の公達。
その右側を一歩遅れて付いて歩くのは、藤色の髪をやはり結うことなく滑らかに流して、陣羽織に袖を通してあり得ぬほど短い裳裾から均整の取れた脚を覗かせている娘。
歩調を揃えて歩きながらも、噛み合っていない遣り取りが不自然な空気となって二人を取り巻いていた。
「…の為と思ひて標し」
夜も明けようという頃になって漸く寝付いたというのに、庭先の部屋の直ぐ近くで出し抜けに鳴きだした鶯の声が耳について、眼が冴えてしまった。
恨むべき相手はまだ年若いらしく、鳴き方もどこか覚束無い。
それを微笑ましいことだと思いながら、経正の思考は傍らで静かな寝息を立てている望美へと逸れていた。
明日が朔月だと思い当たると銀の表情は歪んだ。
「…明日は満月だね。」
そう呟いた望美を背中から抱き締めて、このまま腕の中に閉じ込めてしまいたいと思った夜が甦ってきた。それから満ちて欠けていく月を眺めて二十の夜を過ごした。それは、他人に言わせれば短いのに違いないが、叶うことなら一日たりと望美に逢わずにはいられない銀にしてみれば、酷く虚しいのだった。
「…神子、様。」
「…こんなに幸せなら、このまま死んじゃってもきっと後悔なんかしないかも。」
腕の中で、胸に縋るように顔を埋めた貴女が、そう呟いたのを私は聞き逃しはしなかった。
誰よりも愛しい人にそんな風に想われた喜びと、命に溢れて眩しい人にそんなことを思わせた哀しさで、私の虚ろな魂の中に葛藤の嵐が吹き荒ぶ。
重衡は、今宵はこれまで、と決めた最後の一杯を惜しむようにゆっくりと飲み干した。
これ以上酔うことなど不可能なのだから、むしろ眼を向ければ隣に在る現実となった夢を愛でるのに、何一つ覚束無くなることなど耐えられなかった。
「…十六夜の君、」
最後の一口で十分に湿らせたはずの喉が、それでも上擦った声しか発することができないのは、まだ緊張している証しなのだろうか、と重衡は思った。
「なんですか?」
眼の端をさらりと揺れた髪の先が横切って、彼の女(ひと)が己へ顔を向けたのが知れた。まるでどこぞの女房が書いたという恋絵巻の中の男のように胸を高鳴らせて女人と向き合うなど、己の身の上に起ころうなど思ったこともなかった重衡は、苦笑しながら頭を巡らせた。
なぜ私を選んで下さったのか、と問うた時の貴女の答えは。
「優しくて穏やかで、傍に居るとなんだか安心で、落ち着けるんです…。」
共に戦を憂えて、平和への道筋を探して下さった龍神の神子である貴女から頂戴した賛辞は…喜ぶべき事であるのに。
何気なく触れた指の、小さな爪の先が薄紅色に染まっていることに気がついて、思わず引き寄せた。その色付いた指先がとても甘やかに思えて、唇を寄せたのも意図してではない。
携帯用マイボトルの蓋をひねると、湯気と一緒にお茶の香気が立ちのぼった。
遊歩道沿いのベンチに並んで腰掛けて、同じようにマイボトルに口を付けた望美と譲は、それぞれにお茶を啜った。二人の間に置かれた小ぶりなエコバッグから譲がおもむろに取り出したのは、大福。
「どうぞ、先輩。」
「うん、ありがとう。」
ペラペラと透明な頼りない容器の中に、押し合うように詰められた大福は六個、それなりの大きさがあった。そのうちの黄色っぽい一つを取り出しながら、望美が溜め息混じりに呟いた。
「龍神も、ずいぶんと酷いことを。」
経正が思わず漏らした一言に、驚いたように望美が振り向く。
困ったような笑いを浮かべて龍神の神子を見返すと、平家の将は穏やかに続けた。
「白龍の神子殿のご気分を害してしまったでしょうか?ですが、これは…私の正直な思いではあるのです。」
経正が一歩動いて、望美との距離を詰めた。
最初は、気のせいだと思っていた。
折に触れて目が合い、近づくことがあれば、どこかしら接触してしまうような気がするのは自意識過剰なんだ、と望美は思っていた。
けれど。
「…おまえ、経正に何かしたのか?」
と、いくら幼馴染みであるとはいえ、女性に対して十分に不躾な質問をしてきた将臣に腹を立てた望美は、たまたま、近くに居合わせた惟盛と知盛にその憤懣をぶつけることにしたのだった。
濃い緑の葉を茂らせて真白く楚々とした花弁を開きながら、その花から香るのは噎せ返るほどの重い甘さだった。
息を吸い込むと同時に濃密な香が鼻腔に流れ込んできて、惟盛は微かに眉を顰めた。強すぎる香は、ともすれば品を欠くこともある。
(なんと危うい…。)
その考えと同時に脳裡に浮かんだ人物に狼狽えて、惟盛は人目を気にするように辺りに目配りをした。誰もいるはずがないとわかっていても、確認することで安堵の息を吐く。
名前を呼ばれた気がして、望美は何気なく振り返ったのだった。
そこへ丁度、透き廊を渡って来る経正が見えて、望美は笑いかけた。…つもりだった。
まるで、見てはならないものを見てしまったかのように、経正がぎくりと足を止めて瞠目しなければ、望美も何を思いもしなかっただろう。
しかし、なんとも複雑な表情を貼り付けたまま経正は立ち止まってしまった。
おかげで、動揺する経正など滅多に見たことのない望美の方が狼狽えてしまった。
御簾越しに言葉を交わすどころか、几帳の影に身を隠すこともせず、目まぐるしく変わる表情を扇で遮ることもしない目の前の少女を、経正は顔に出しこそしないが感歎の思いで見つめていた。
─生きる、という理から離れた身には、なんとも。
眩いばかりの美しさ、存在感、生命力、そんなもの全てが、目の前に居る元龍神の神子を光り輝かせて衣通姫となさしめていた。
「…ど、どうして、こんなにたくさん買わなくてはいけなんですか!?」
リビングとキッチンに挟まれたダイニングから、その表情がありありと目に浮かぶ、呆れたような憤るような朔の声に、望美は片付けての手を止めて身体を反転させた。
朝早くから買い物に行くと言っていた景時が帰って来たのは気付いていたが、ついキリの良いところまで片付けてしまおうと思ったのが裏目になったようだ。
廊下を走り、開け放たれたままのリビングのドアを抜けて、ダイニングの入り口にまで辿り着けば。
「兄上!?」
愛しい相手との来世のために、住み慣れた世界に別れを告げて、この異界へ辿り着いた。
全てが目新しく、不慣れなことばかりで、己よりもずいぶんと年若い想い人に教えられるばかりの日々は、それなりに苦行だったのだ。ただ生来学び覚えることに辛かったことがなかったからか、慣れ親しむのは早かったのだと思う。さんざん周りから、そう言われもした。
この異界では、これまで常識と思っていたことを覆されることも少なくなかった。ここでの暮らしに慣れたと思える今でも、戸惑うことには事欠かない。
それでも、例え揶揄されようとも、譲れないことも、あるにはある。
─年長者として、男として、愛する人を護り、導きたい。
教えられることが嫌なのでは、決してない。…ただ、違う世界であるとはいえ、彼女の倍近くを生きて培った知識や経験を伝えることができるのならば、その機会を逃すことはしたく無いと思っている経正なのだった。
「一つだけ、ですか?」
「はい、そうです。経正さんだったら、何を持っていきますか?」
─無人島に一つだけ、持って行くものを選べるとしたら。
何を選ぶか、という質問。
将臣には呆れられ、知盛や惟盛には眉を顰められ、重衡にはちゃんと相手にされていたのか確かではなかったが、望美は朝から顔を見た相手に手当たり次第、この質問に答えてもらうべく奮闘していた。
ふと喉の渇きを覚えて、恐らくは深夜だというのに眼が覚めてしまった望美は、傍らに感じられる想い人の温もりと寝息に未だ慣れず、一人で頬を染めた。
枕代わりになっているものも、望美の腰を抱き寄せるように添えられているものも、逞しい腕は経正の存在をまざまざと感じさせる。それは例えば日中、互いの顔を見つめて微笑みながら言葉を交わしている時とは、また違う充足感があった。
ただ眼が覚めただけだったら再び目を閉じて、経正に包まれる眠りの中へと直ぐに戻ったかも知れなかったが、一旦意識した喉の渇きは望美を褥から押し出そうとしかしない。暫く逡巡したものの、結局身体の要求に屈する形で、望美はなるべく気取られないように経正の腕から離れようと試みた。
「どこへ行かれるのですか?」
部屋に入った途端に背後から、望美は経正に抱き締められていた。
「っ、つ、経正さ」
そのまま頤を捉えられて唇を塞がれて、呼びかけの言葉も飲み込まれてしまう。
いつになく唐突な、そして激しい、という形容に相応しい行動に望美が戸惑ったのは最初だけだった。
「明るいお題で泣くバトン」消化、第二弾!
二番手は「遙かなる時空の中で3」から、平泉の御曹司で。
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…以下は現代パラレルでHOST CLUB一門の設定を使い、素敵なお題サイト様を活用させていただいたものとなりますので、許容できなさそうな方はお進みなりませんようお願いします。
また、ずっと手ブロに放置していたこの設定で、素敵な経正さんを描いて下さったつきよむさんに、心からの感謝とこの拙作を捧げます!(受け取り拒否可w)
確かに恋だった
近くにある小さな神社の縁日は、隣同士だった望美と有川兄弟には慣れ親しんできた騒ぎだった。
毎月定められた日になれば、広くもない参道の片側だけに出店が軒を連ねて賑わう。それらは大人の目からみれば取るに足りない物であっても、子供にとっては期待と興奮と羨望が積み上げられた宝の山に等しかった。
たまたま有川家の居間で顔を合わせた四人の会話は、外から聞こえてくる夏祭りの囃し太鼓のせいで、自然と夏祭りの話題になった。
その近所の神社の祭りは本当にささやかだったので、短い参道の片側だけに寄せられた出店の数々もすぐに一通り見終わってしまった。
子供の頃には延々と続く露天の店先は限りなく広く、握りしめていた小遣いなど、あっという間に消えてしまっていたのに、と望美はしかめっ面で首を傾げた。確かに身体は大きくなりはしたけれど、こんな夜を楽しもうという気持ちは昔と少しも変わっていないと思えるにも関わらず、というところが納得できない気がした。
あまりにもあっけなくて、まだ帰りたくなかった望美は、悔しまぎれに経正に我が儘を言ってみることにしたのだ。
「このまま経正さんのとこに…お邪魔しても良いですか?」
いつもなら鷹揚に微笑んで快諾してくれる相手が、束の間、怯んで言葉を探すように逡巡していたことに、望美は気がつかなかった。
他愛のない恋人の我が儘を、なんでもなく受け流すことがここまで難しいとは経正も思っていなかった。瞬く間に目的を果たし、手持ち無沙汰になってしまった逢瀬でも、早く切り上げたいと望むはずもなかったが、いつになく己を苛む情慾が自身をいつまで寛容な保護者然としたままでいさせてくれるのか、経正には量り知る術がなかった。
今宵は都合が悪いのだと断ってしまえばいいのだと思った矢先、言葉だけが先に口から滑り出して経正を驚かせた。
「かまいませんよ、勿論。」
それが己の欲するところだったのか、と経正は呆れた。今さら訂正して望美の嬉しそうな表情を曇らせるに忍びないと、内心で己に言い訳する自分を苦々しく思わずにはいられなかった。
両手を祭の屋台で収穫した戦利品で塞いでしまった無邪気な恋人は、いつまでその笑顔でいてくれるだろうか。その笑顔を護りたいと思う反面、違う表情に塗り替えてもみたいという思いは、二人が向かう目的地のドアに近づくほど比例して強くなっていくようだった。
無意識に伸ばした手の先に、さらりと、艶やかでいて柔らかい感触の髪があった。その髪を戴く「神子」と呼び習わされた女性は、驚いたように目を見開いて経正を振り向いた。
「…っ、あ、の?」
困らせるつもりなど毛頭無かったにも関わらず、経正は戸惑って揺れる瞳に己の手を取り戻すことが出来なかった。そして、そのまま手触りを楽しむように髪を…繰り返し撫でてしまう。身を硬くして見る見るうちに頬を染める望美は尚更に愛らしく、経正の手を引き戻せなくさせる。
そこは、経正が一人になりたいと思った時に足を向ける場所だった。
嘗ては弟の、或いは一門の行く末を思い煩いながら憂えて、時には己の有り様に絶望を抱えて立ち尽くすことも多かったそこは、ささやかながら経正に慰めを与え、落ち着きを取り戻させてくれる居場所だった。
源平の和議が成り、源氏方だった龍神の神子が平氏方に身を寄せるようになってからは以前のように訪れることは、ほとんど無くなりつつあった場所に、なぜかふと、思い立ったように足を向けたくなったのだ。まるで何かに呼ばれるか導かれでもしたようだった、と後になって経正は思い起こした。
最後の繁みを抜ければ、すぐに懐かしさとともに親しんだ眺めが視界に飛び込んでくる。
しかし同時に、片隅に映ったここには見慣れない色彩が脅えるように跳ね上がったのにも気がついて、頭を巡らす。
……言った。確かに、そんな話をしていた記憶はあった。
『……なんだか、今一つ、そんな甘い雰囲気にならないんだものぉ』
他愛ない女の子同士のお喋りの一場面で、確かに年上の(多分、関係としては)恋人の、紳士何だか、大人の余裕何だか、単なる子供扱い何だかわからない、中途半端な扱いに不満があることをこぼしたかもしれない。
「忠度殿の歌を、お借りしてもよろしいでしょうか?」
唐突に尋ねられて、驚いた薩摩守忠度は足を止めた。
その声をかけてきた人物、但馬守経正は、常ならば渡殿でいきなり声をかけるようなことはしないだろう。にもかかわらず冴え冴えとした秋空の望月に浮かびあがるように立ち尽くした姿は、どこか青ざめて見えた。
未明の空気はすっかり秋の気配に染め変えられ、肌寒くさえある。そのせいで目覚めてしまった望美は、まだ自分の体温で温められたままの褥から抜け出すことをたっぷり逡巡してから身体を起こした。
気合いを入れるように寝間着の単を脱ぎ捨てると、朝の冷気が完全に頭を冴えさせた。いつもの装束に袖を通して身支度を整えた望美は、他はまだ起き出していないらしい静けさの中を蔀戸を開けて簀子縁へ、そして階を降りて庭へと出た。
調えられた庭の下草には露が降り、まだ明けきらない薄闇の中にも微かに揺れて光を含んでいるのが見て取れた。
「……きれい」
望美は箱の中から、ピンクのガーターストッキングを取り出した。
箱の中に入っていたのは、もちろんそれだけではない。色や素材的にお揃いなのだろう、ブラジャーとショーツも一緒にあった。
「……っ」
色合い的にも、フリルがふんだんに使われたデザイン的にも、可愛い、と言え無くないはずなのに。いつも身につけている物に比べれば、面積が狭かったり、見せたいのか見せたくないのかと突っ込みたくなる要素が多すぎて……。
(こ……、これは。……着てない方がよっぽど恥ずかしくない気がするのは、なぜっっ!?)
長(九)月になってから、望美はほとんど経正の顔を見ていなかった。
元々一門の中核を担う位置にあるのだから、なにやかやと忙しいのはわかりきっているのだが、同じように忙しいはずの将臣や惟盛とは言葉を交わす機会もあったし、知盛の姿も見かけるだけなら両手の指をほぼ折れる。
それなのに、経正とだけもう十日以上も声を聞いていないどころか、顔さえも見ていない。
灯明の明かりを吹き消して、望美は御帳台の中へ横になった。深夜とはいえ、三日後には朔となる月明かりが秋の夜空を煌々と照らして、どこからともなく忍び込んでいる。本当の闇にはならない褥の中で、望美は次の満月を思って溜め息を吐いた。
「望美さん、手をどうかしたんですか?」
気遣わしげに眉を顰めて問いかけてきた弁慶に、望美は悪戯を見つかった子供のように身を竦ませた。
必要なら見て見ぬふり、気付かぬふりも得意なはずなのに、こちらが気がついて欲しくないことには必ずといって良いほど口を、そして手まで出してくるのが弁慶だった。
(……もしかし……なくても、わざと。……なのかなぁ)
答えを躊躇っているうちに、いつの間にかすぐ傍まで近づいていた弁慶に気付かなかった望美は、いきなり手を取られて飛び上がらんばかりに驚いた。
夜空を見上げるとぽっかりと半月が浮かんでいる。濃い色の闇にくっきりと明るい月は、あと七日で満月になるのだと教えてくれた人を想って、望美はため息を吐いた。
逢いたい、と。いつでも顔を見て、声が聞きたいと願う相手と自分との立場は、決してそれをたやすく許してはくれない。
わかってはいても、募る想いの切なさにため息は止むことがない。
さら、とかすかな音を立てて御簾が上げられたことには直ぐ気がついた。
だが、望美は特に気に留めるでもなく文机に肘をついて顎を支えたまま、考え事を続けようと思っていた。
「……神子殿」
すると、御簾をくぐって来た人影が望美を呼んだ。
思いも寄らなかった声に、振り返った望美の目に映るのは、間違いようもない声の主。その美丈夫の背中では御簾が、やはり微かな音と共に元通り下ろされた。
紗(うすぎぬ)を裂いたような雲が漂う合間から、見事としか言いようのない月が煌々と覗いている空を仰いで、誰もが感嘆の息を吐くだろう。
もちろん望美もそうしたい。
望月の夜は何度でも巡る。しかし、今夜は「中秋の名月」と讃えられる格別の月。ましてや望美にとっても特別の宵になるはずだった。
家人が慌ただしく戸締まりを急ぐのは、野分がやって来るせいで強くなる一方の雨風に備えてのことだった。
「何か手伝いましょうか?」
と声をかける暇もなく、手際よく畳まれていく屏風、几帳、衝立の数々。蔀戸も閉じられ、御簾もしっかり下ろされてしまうと昼間とはいえ雨天の室内は一気に暗くなる。
その他の細々とした調度も必要最低限を除いて隅へと片付けられると、建物の造りから当然だが妙に広々としてがらんと感じられてしまう。
彼女(かのひと)に見(まみ)えれば、想いは取り留めなく渦を巻きて逆様(さかしま)、理(ことはり)をも飲み込み己を律することを妨げんとす。
如何様(いかさま)にも為す術無く溺れゆく我が身は、ことあるごとに彼女(かのひと)を避けつ隠れたり。
その姿、もし垣間見ることあらば、口にするも適わぬ誓いを約せんと、身はつまされる。その声、耳にすることあれば、彼女(かのひと)の御為(おんため)にと己に適うことを数え上げつつ。共に、と考えるだに浅ましき将来(ゆくすえ)に思いを馳せて、虚しき息を吐くと。
なほ頑なに慎まんとすれども、誘惑は甘美にて、刹那に思い煩う心をば引き裂く。
この身は人に非(あら)ず。
この世の者に非(あら)ず。
繰り返し、繰り返し己に戒めつ刻みし言の葉は、いつしか馴染みてその意味を忘る、と。なれば理(ことはり)を繫ぎ止めし結び目も、やがて緩みて縛めの力も果てる、と。
能(あた)うならば彼女(かのひと)の目に触れること無きまま、律し、戒めるを強く欲して、ひたすら浄化を希(こいねが)うべきと知るものを。
離(さか)れれば離(さか)るるほど、この身を気遣いし貴女(ひと)が求め来る故に。
避くれば避くるほど、その身を忘れ得ぬと心が求め往く故に。
天地(あめつち)か、月と潮とが引き合う如くかに離れられぬは、何故(なにゆえ)か。
求め給うな。
求めさせ給うな。
このささやかな願いすら叶えられぬ身に、弥増(いやま)す望みを抱(いだ)かせること勿(なか)れ。
ふと鼻先を掠めたのが馴染みの深い香りだったせいで、敦盛は思わず顔を上げて望美を凝視してしまった。
言葉も、仕草も唐突に静止してしまった敦盛に、望美は首を傾げて疑問の視線で問う。
いつになっても望美の真っ直ぐな視線を受け止めることに戸惑いを隠せない敦盛は、僅かにその視線から目を逸らせると微かには染まっているだろう頬を意識するまいと努力をしながら、何とか答えた。
「……いや、なんでもないのだ神子。気にしないでもらえるだろうか」
敦盛が何でもないと言った以上、伝えることは不要と判断された何かを引き出すことはできないことは望美にもわかっていた。だから、ただ頷いて答えを受け容れると、中断した話の続きを再開した。
「片見月は縁起が良くないといいますから」
明るい十五夜の月の下でそう呟いた人は、眠くて生返事しか返せない望美に苦笑した。
十五夜の約束は果たされないものと寝入っていたところを起こされて、最初は朦朧としていた望美も、思いも寄らぬぎりぎりの約束の成就に破顔したのだが。やはり睡魔を完全に払うことはできなかったらしく、二人並んで月を見上げる途中から何度か上体が揺れて、首の角度がかくりと傾いた。
夜も更けたその後に、やっとかなった逢瀬ではあったが、大事な想い人に無理をさせるのは本意ではないと、望美は次の逢瀬を約束させられることになった。
閑静な住宅街の一角にある瀟洒な邸宅。普段は静まりかえっているその邸内に、今夜は煌々と灯りが点り、賑やかにさざめく人々の声と、何やら食欲をそそる匂いが漂っている。 くぅ、と小気味よく鳴った音を誤魔化そうと口を開く前に、隣を歩いていた影が立ち止まった。
「空腹なのか?」
「っそ、そういうわけじゃないです、けど。美味しそうな匂いに……つられました」
キンと冷えて、張りつめた空気。晴れ渡った夜空には、一筋の雲すら見えない。
中空には、ただ眩しいばかりに煌々と輝く月。
その明かりに恥じて隠れているのか、小さな星たちは姿を見せようともしない。
すっかり葉も落ちて寒々しい大樹の枝の隙間から、この夜空を臨む人影は溜め息と共に言葉を吐き出した。
「……忌々しい」
キンと冷えて、張りつめた空気。晴れ渡った夜空には、一筋の雲すら見えない。
中空には、ただ眩しいばかりに煌々と輝く月。
その明かりに恥じて隠れているのか、小さな星たちは姿を見せようともしない。
この季節には、冷たい風の通りが良すぎて敬遠される釣殿から夜空を臨む影が、低い言葉を発した。
この物語は『遙かなる時空の中で3』キャストによる現代パラレル(多分ラブコメ?)です。許せない方は引き返してください(^^;
四コマ漫画ネタとして着想しましたが、なかなか描く暇がないのでとりあえず忘れないうちに文字で書き起こしています。けっこうダラダラと長くなりそうな予感…。途中で厭きる危険性大です←
漫画と平行して書いていくかもしれませんし、漫画に描き起こしたら文字の方は消えるかもしれません。
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この物語は『遙かなる時空の中で3』キャストによる現代パラレル(多分ラブコメ?)です。許せない方は引き返してください(^^;
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